チョコレートドーナツ 監督:トラヴィス・ファイン

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☆☆☆☆☆☆☆☆★★(8点)
たまたまこのあいだ観たばかりの「ブラック・クランズマン」と同じ1970年代の話。「ブラック・クランズマン」が描いていたのは黒人に対する差別で、「チョコレートドーナツ」はゲイと障害児への偏見と差別だ。障害児のマルコについては、むしろ製作側の温かい目に包まれていたことがわかるような、とても好意的な場面が多く、あからさまにひどい扱いを受けるシーンは少なかった。それよりもゲイへの風あたりの強さをシビアに描いており、社会の気難しさや不寛容さがよくわかる話となっている。たった40年ほど前の世界だ。今でも差別はそれなりの数の人たちの心にあるだろうけど、今の世の中だったら検事のポールがクビになることはなかっただろうし、検事局のあり得ない嫌がらせもなかったに違いないし、マルコは助かっていたかもしれない。とはいえ偏見や差別は巧妙に隠されるようになっただけかもしれず、日本のことで言えばたとえばカミングアウトの数が圧倒的に少ない。状況は劇的に変わったわけではない気もする。それでも世界が露骨な差別を拒否するようになったのは確実だ。1970年代のアメリカで、ゲイのカップルと黒人の弁護士が障害児の養育権を得ようという戦いは、とんでもなく無謀なことだったみたいだ。ゲイのルディ(アラン・カミング)とポール(ギャレット・ディラハント)は、マルコを検査してもらった医者にこの子はずっとこのままだと言われる。通常の意味での大人にはならないということだ。ずっと面倒をみなければいけない。マルコを引き取るというのは並大抵のことではない。親はこどもの成長を喜ぶとともに、大人になっていく子をさみしく思ったりもする。ずっとこどもでいてほしいと思うことさえあるかもしれない。だけど事実としてこの子はずっとこのままですよと言われたら、自分だったらどう感じるか。ルディとポールはぶれなかった。生やさしい気持ちじゃなかったのだろう。映画はマルコが人形を抱いて夜の町を歩く美しいシーンから始まるのだけど、これは最後のシーンでもある。ルディとポールのいる本当の家を探し歩いていたという、実は胸が締めつけられるようなシーンだった。

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